編集長コラム | ||
いま、心を耕すこと | 農業経営者 10月号 | (1993/10/01)
しかし、ひどいことを言うヤツだと思われるかもしれないが、今年の「不作」が、歴史に残る不良天候による「冷害」であったことは違いないにしても、そこには「捨て作り不作」や、まさに「江刺しの稲のたくましさ」(本誌創刊号19頁参照)が我々に教えてくれる「作物自身」や「土」が本来備えている生命力を無視した技術・経営観がもたらした「農法的不作」という側面がないのかを問うてみる必要はあるまいか。
「今年ほど人による作柄の違いが出たことも少ない」
のだそうで、他の人々を気遣いながらも、天候不良の影響を受けた地区で平年作であったり、減収はしていても周辺の人々と比べればはるかに被害が少ないという。しかも被害が甚大だと言われている場所ほど、その違いが明瞭であるようだ。また、有機質の投入が多く、相対的に施肥量の少ない栽培をしている人の被害が軽いというのも共通する話だった。
お話を伺った人々は、育苗、施肥や防除、水管理なども単に指導マニュアル通りという意味でなく自分なりの基準を持って然るべく対処している。
東北のある県の人はこうも言った。
「自分でもここまで天候不良が続くとは想像もできなかったけど、空中散布に頼っているだけではイモチヘの防除は無理だった。自分でその判断のできた人はいいが、そうでない人々にとっては指導体制も後手に回っていたのではないか」
プラウを使ったことが良かったと言い、防除の確実さ、品種選択の問題で、かなり被害は軽減されたはずだという。
その人たちが使った技術手段はすべてその気になれば誰でもが使えるものであるはずだ。でも、なぜそうならないのだろう。問題はそれだけなのだろうか。むしろ、問題は優れた経営者たちに共通する「安定的経営創造への意志」と「土へのこだわり」の有無にあるような気がする。
かつて、こんなお話をある経営者から伺った。
「作物は人や技術が作るのでなく、土を作れば作物は勝手に育つ」
その方には、土や作物が本来持っている能力を信じる想像力があるからこそ、そう言えるのだろう。そして、彼が「土を作れば…」というのは、作物が本来持っている力を引き出す条件を土の中に作り出すこと。遠回りのように見えても、その場しのぎの技術(障害への対症療法的に過ぎない技術)や仕事の組み立でではなく、農業経営の本質を見つめるということなのだろう。そして、その方が語っていることの本質は、土を使わない水耕栽培であれ、農業以外の経営であれ、変わらないのではないか-。全くそのレベルに達せず、失敗を積み重ねるばかりの僕は考えている。
農業の経営がただ農協や行政など指導機関の指示において行われるのだというのなら話は別だ。経営者あるいは農業者としての自負を持つ者であるなら、条件の悪さだけにその理由を求める人はいないであろう。むしろ、今こそ、自分自身の「経営への意志」と条件の悪いときにこそ真価を発揮して経営に安定をもたらす経営観、技術観を構築する絶好のチャンスなのだと思うべきなのではないか。そして、不作にめげず今年「良い作」を上げた人々から、我々は何を学ぶのか。そのことこそが、我々の未来を創るのだ、と考えるべきなのではないだろうか。
多分、この後、様々な人々や指導機関が「土作り」の大切さを、あるいは土作りの「技術」を「指導」するのだろう。しかし、多分「土作り」を語ることの本質は、単なる「技術」の問題ではなく、それを問う経営者の「意志」なのではあるまいか。今、田を深く耕すだけでなく、我々は自分自身の心を耕す必要があるのだろう。
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