【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -
profile
】
日本人が貧しくとも好景気や未来への予感に浮かれることのできた昭和30~40年代。東宝「森繁社長シリーズ」の三木のり平や「無責任シリーズ」でサラリーマン植木等が連発した“シャチョー”。あるいは一昔前、場末の盛り場でキャバレーのアンちゃんが酔客の呼びこみに使うセリフも“シャチョー”だった。のり平や植木がヘツライの情を込めて使った「社長」では最初の母音にアクセントが付いていた。一方、呼びこみのアンちゃんの場合には“ねェー、シャチョー、シャチョー”と二度呼びにするのが常だった。その言葉の中には、安サラリーマンがおこぼれに預る好運を期待しつつも裏では舌を出して見せる大衆の健康な笑いがあった。でも、そこには苦労の中で成功を勝ち得た者に対する尊敬のニュアンスも込められていた。であればこそ、人を乗せて落すセリフとして有効だったのだ。しかし、今やサラリーマンにとって花見酒など夢のまた夢、せいぜい安飲み屋か屋台でクダ巻くボヤキ酒、客引きの方が身につまされてしまうご時世。キャバレーが姿を消し、当時のアンちゃんたちも若者向けのキャバクラやクラブ(語尾上がる)の黒服に職場を追われてしまった。ついでに言えば、松竹「寅さんシリーズ」で寅が呼んだ「たこシャチョー」は無責任なフーテンだから言えたストレートなカラカイだった。さくらの亭主が語る民主商工会風の真面目さがチョット鼻についたけど、そこにはいつも資金繰りに苦労している零細自営業者の一所懸命さに対する愛情が込められていた。さらに、バブルの時代になると宮尾すすむが“シャチョー”という言葉に身振りを加えてヘツライ表現のバラエティーを使い分けしていたのを若い人でも覚えているだろう。しかし、その頃になると人々の羨望と妬みを消費するメディアとしてのTVや女性週刊誌がうさんくさい“青年実業家”たちを登場させ、バブル崩壊後のTVに映し出される無責任な大企業経営者たちの醜態を見せられることで、人々は「社長」「経営者」という言葉にイカガワシサや軽蔑のようなものを感じ始めるようになった。それはかつての左翼が憎しみを込めて使ったニュアンスとも違っていた。