編集長コラム | ||
とことん私利私欲であればこそ | 農業経営者 4月号 | (1995/04/01)
【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
】
今、我々は不安と混乱の時代を生きているように思える。今までの日本では考えられなかったような事件がたて続けに起きるからではない。むしろそれは、その不安を原因とする結果なのではないか。「建て前」といわれるものであれ、とりあえず日本人が行動の規範としてきたものの考え方が通用しなくなりつつあることへの不安であり、それに由来する混乱である。かといって我々は新たな規範を創ろうという気構えや意思を失いかけているのではないか。そう感じるのは、僕が少し疲れ気味のせいだからなのだと思いたい。そもそも人々の振る舞いがひどく刹那的であり、さもなくばあらゆることを指示されるままに、あるいは機械的に反応するしかない、奴隷かロボットになりたがっている日本人ばかりが増えてきているかのようにみえるからだ(いつだってそうだったのかもしれないが)。
そのくせその時その時の我欲のままに振舞い、言葉を発するおのれについては、露ほども問うことがない。
しかもそれが、高い見識を持ち社会的責任を負う(ものと思われてきた)、人々の範となるべき(はずの)人々において、もう笑い話しのようにアカラサマであったりもしてしまう。
権力者の悪徳などというものはいつの時代にだってあるし、それを質す「正義」の糾弾者への無責任な大衆の喝采も、また世の常であった。
しかし、現代の不幸とは、悪徳であれなんであれ、何等かの未来や夢を描くことのできる指導者を見出せなくなってしまったこと。そしてそれが官僚という名の現代の司祭たちによる、いかにも悪意なく、正しそうに見えるが、不経済で活力に乏しい官僚支配の国をつくりあげてしまったこと。また一方では「正義」を語る人々の、おのれを問わず天に向かって唾する言葉の空しさ、滑稽さに、そろそろ人々が白々しいものを感じ始めていることだ。
そしてそんな社会システムヘの人々の不信感が、ある限界を超えてしまうのではないかと思える時代になってきたということではないだろうか。
災難にあわれた方々のことをこんな所で引合いに出すのは不謹慎かもしれないが、兵庫の震災の際に名もなき市民や商店の小母さんたちの振る舞いによって、庶民の中にある「人倫」とでもいうべきものに触れ、多くの人があれほどに感動し、逆に、むしろ何か救われた様な感情を持ったのは、単に同情だけからではなく、時代状況のひどさの裏返しだったのかもしれない。
それは、法律や制度や契約などといったもの以前に、むしろその前提となっている、もっと素朴な人々の「わきまえ」がいかに社会にとって価値あるものであるかを、あらためて確認したからなのではないだろうか。
誤解されそうな言い方だが、人は頭ではなく、胃袋や手足の筋肉で考えるようなこと、をもう少し大事にすべきなのではないか。人が経験のなかで振る舞い方として選んできたこと、それも僕や父の世代というより、祖父や曾祖父が何を考え、どう振る舞ってきたのかをもっと学ばなければならないのではないだろうか。
それは多分、頭だけで考えた「正義」や「善意」や「良心」によってではなく、むしろ食べ過ぎれば腹をこわすおのれの胃袋で哲学し、振舞いを選ぶ智恵だったのではないのだろうか。いわばトコトン私利私欲であればこそ、目先の小さな欲を越え、時代の同伴者、そして共に生き、伝えるべき未来のために働くことではなかったのだろうか。そのために自らを問い続けたい。他人を問うても答はないのだ。でなければ、不安に駆られた原理主義者のテロリズムに世の中が蹉踊されかねない時代なのだ。
しかし、現在をどれほど暗く認識しようとも、我々は常に明るく未来を夢見る態度を捨てたくない。以前、ある老農から「明日死ぬのだとしても今日は堆肥をまくというのが百姓の生き方なのだよ」と教えていただいたことがある。僕も、今日がどれ程の土砂降りの雨であったとしても、明日が「晴れたらいいね」と歌いながら未来のために堆肥をまく自分でありたい。
しかもそれが、高い見識を持ち社会的責任を負う(ものと思われてきた)、人々の範となるべき(はずの)人々において、もう笑い話しのようにアカラサマであったりもしてしまう。
権力者の悪徳などというものはいつの時代にだってあるし、それを質す「正義」の糾弾者への無責任な大衆の喝采も、また世の常であった。
しかし、現代の不幸とは、悪徳であれなんであれ、何等かの未来や夢を描くことのできる指導者を見出せなくなってしまったこと。そしてそれが官僚という名の現代の司祭たちによる、いかにも悪意なく、正しそうに見えるが、不経済で活力に乏しい官僚支配の国をつくりあげてしまったこと。また一方では「正義」を語る人々の、おのれを問わず天に向かって唾する言葉の空しさ、滑稽さに、そろそろ人々が白々しいものを感じ始めていることだ。
そしてそんな社会システムヘの人々の不信感が、ある限界を超えてしまうのではないかと思える時代になってきたということではないだろうか。
災難にあわれた方々のことをこんな所で引合いに出すのは不謹慎かもしれないが、兵庫の震災の際に名もなき市民や商店の小母さんたちの振る舞いによって、庶民の中にある「人倫」とでもいうべきものに触れ、多くの人があれほどに感動し、逆に、むしろ何か救われた様な感情を持ったのは、単に同情だけからではなく、時代状況のひどさの裏返しだったのかもしれない。
それは、法律や制度や契約などといったもの以前に、むしろその前提となっている、もっと素朴な人々の「わきまえ」がいかに社会にとって価値あるものであるかを、あらためて確認したからなのではないだろうか。
誤解されそうな言い方だが、人は頭ではなく、胃袋や手足の筋肉で考えるようなこと、をもう少し大事にすべきなのではないか。人が経験のなかで振る舞い方として選んできたこと、それも僕や父の世代というより、祖父や曾祖父が何を考え、どう振る舞ってきたのかをもっと学ばなければならないのではないだろうか。
それは多分、頭だけで考えた「正義」や「善意」や「良心」によってではなく、むしろ食べ過ぎれば腹をこわすおのれの胃袋で哲学し、振舞いを選ぶ智恵だったのではないのだろうか。いわばトコトン私利私欲であればこそ、目先の小さな欲を越え、時代の同伴者、そして共に生き、伝えるべき未来のために働くことではなかったのだろうか。そのために自らを問い続けたい。他人を問うても答はないのだ。でなければ、不安に駆られた原理主義者のテロリズムに世の中が蹉踊されかねない時代なのだ。
しかし、現在をどれほど暗く認識しようとも、我々は常に明るく未来を夢見る態度を捨てたくない。以前、ある老農から「明日死ぬのだとしても今日は堆肥をまくというのが百姓の生き方なのだよ」と教えていただいたことがある。僕も、今日がどれ程の土砂降りの雨であったとしても、明日が「晴れたらいいね」と歌いながら未来のために堆肥をまく自分でありたい。
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