編集長コラム | ||
主体なき「農業経営論」の不毛さ | 農業経営者 8月号 | (1996/08/01)
「値段が高い」「競争が激しい」「お客が少ない」「お客が理解してくれない」「時期が悪い」「商品が悪い」等々、売れない理由は幾らでもあげられるものなのだ。
しかし、同じ条件の中で売る人がいる。その彼は売れない理由を数え上げるのではなく、その条件の中でどうしたら売れるかを考えるからだ。売れないセールスマンが売れないのは、売ろうとしていないだけなのだ。やればできるのだ。
三嶋さんは120頭の肉牛肥育経営。労働力は三嶋さん一人だけ。しかも三嶋さんの1日の労働時間は6時間である。昨年度の粗収益は950万円。これは肉牛と発酵おが屑堆肥の販売収入も含めた金額だ。所得では630万円だという。
所得630万円という金額だけで見るならもっと大きな数字を上げる経営はたくさんあるだろう。しかし、ご主人は公務員、初めは義父と二人、規模を拡大した後には二人の病身の老人を抱えながら女手一つでの収益なのである(こんな表現自体を三嶋さんは陳腐と思われるかもしれないが)。小さな規模ではあるが極めて効率の良い畜産経営だとはいえないか。
餌は粗飼料を含めて全て購入飼料である。しかも牛への給餌は3日に一度しかやらない。見回りは毎日している。それでも牛は穏やかで、臭いもしない。しかも家畜の共済はほとんど掛け捨て状態だという事故率の低さなのだ。糞尿はおが屑の敷料に踏ませて堆肥化し、全量外部へ販売している。5日に一度堆肥舎に運び、切り返し、袋詰めは手作業で近隣の主婦パートを頼んでやっている。機械化した方がコストは安いのかもしれないが地域のつながりを考えてあえて人手を頼んでいる。
三嶋さんのやり方は、飼養管理技術の「常識」や「標準」といわれるものからすれば、「非常識」なのかもしれない。でも、常識的なやり方をしていたら牛飼いは続けられなかった。病身の老人二人を世話しながらも、牛飼いを続けていきたいと考えた三嶋さんのギリギリの働き方工夫だったのである。
条件が整っているからではなく、三嶋さんの意思が現在の経営を実現させたのである。むしろ、そうせざるを得ない経営環境だったから、牛飼いの常識をくつがえし、現在の小さいながらも極めて経営効率の高い畜産経営を作り上げたのだ。もちろん三嶋さんの自由な発想力や決断力に加えて細心な気配りと試行錯誤もあったことはいうまでもなかろう。でも、牛飼いを続けたいという三嶋さんの思いが先にあり、そして、やったからできたのである。
行政官や農業を評論する立場の人たちは「絵に画いた餅」にすぎない経営類型や技術体系をいじくりまわしながら、経営の成立条件を云々する。
しかし、問題は「人」なのであり「経営者」の意思なのである。条件ではないのだ。条件などというものは腕組をしているだけでは、いつまで立っても整わないと考えるべきなのだ。むしろ、へたに条件が整っているために、自分の置かれた位置にある可能性が見えてこないことすらあるのだ。
当の農業経営者たちのなかにも「規模拡大をしようとしても地域の中で水田を集められない」とぼやく人、「自分の経営を発展させようとすると地域の和が崩れる」「農業は共同体として成立してきたものだから一人だけの発展は無理だ」等々と、自らの条件の悪さを経営発展の制約条件としてことさらに語る人がいる。
確かにその通りなのだろう。しかし、それは、売れないセールスマンの弁解と似ているのではないであろうか。こうした悪条件だからできないのではなく、どうしたらその条件を克服できるのかを本当に考えているのだろうか。自分の仕事を実現していくために地域や関係者への説得が足りないだけなのではないか。いってみれば本当の営業活動をしていないのかもしれない。自分が歩もうとしてる線路を行政や農協が敷いてくれるのを待っているとでもいうのだろうか。実は今のままでいることに満足しているからではないのか。
そうしたボヤキを吐く人は、先進的な経営者の話を聞く時、彼の事業者としてのセンスや覚悟こそを盗み見るべきなのである。ボヤキを吐いている今の自分よりもっと悪条件の中でその人の仕事が始っていることも少なくないはずだ。決して大規模水田だけでなくとも、遠隔地の田や畑であっても、やる人はやるのだ。成功は与えられるものでなく、自ら演出するものだからだ。
もちろん、経営の形は経営者の数だけ様々にあっておかしくはない。また、失敗を繰り返すこともあるだろう。しかし、自らこうあろうとする意思とチャレンジのないところには、願うべき未来はないことだけは確かだ。繰り返しになるが、やればできるのだ。そして、三嶋さんの場合にも支援してくれる人がいたようだ。チャレンジする人にはかならず協力者や支援者というものが出てきてくれるものなのだ。
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