編集長コラム | ||
歴史に身を任せ自ら足を踏出せ | 農業経営者 2月号 | (1997/02/01)
本誌は創刊の辞で「土を信じる」という楽天主義を述べ、「夢は実現する」と断言した。「条件」ではなく「意志」こそが人の未来を決める、とも。それでこそ計画がたち、手順を考える根拠が生まれてくるのだ。
しかし、気鬱の時があったり、思い通りにいかぬことが続いて気弱になることだってある。それが人間なのだと思う。
自然、その一部としての人間の歴史とは、ピサの斜搭のように「傾いた(偏心した)らせん階段」のように展開していくものなのではないだろうか。
自然も歴史も循環しているが元の位置に戻ることはない。らせん階段は上から見れば同じ円還を巡っているように見えるが、時間という縦軸の見える場所から眺めれば、一回転すると以前とは異なった位相に立ち入っている。
そして傾いたらせん階段を延長していけば、やがてその傾きのために階段は倒れる。それが歴史の転換点なのだ。しかし、それは終末ではない。新たならせん階段の循環の始まりなのである。
新しいらせん階段は転倒以前のらせん階段の中心軸の長さ(倒れた搭の高さ=歴史の一世代の時間の長さ)を半径としたより大きな回転径(世界の広がり)を持って回り始めるのだ。転倒と同時に回転軸の方向(歴史の方向性)も変わる。そして、なぜか転倒と同時に重力の向きも変わってしまうのだ。しかも、らせん階段の回転軸は以前の場合と同様に重力軸から僅かに偏心したものになっている。
以前の搭を転倒させた重力のエネルギーは次の循環の初期エネルギーとなり、次に起きる搭の転倒まで回転を持続させる。歴史とはこの「らせんの循環」「転倒」「軸の転換」が永遠に繰り返されていくことなのではないだろうか。
また、大きな循環はその中に無数の小さならせん階段を連結させて包み込んでおり、そこでも小さな規模での転倒と軸の転換が繰り返されていく。
我々はそんな「偏心らせん階段」を登り続けているのではないだろうか。
時間が人の意志とは関係なく前へ進むように、人はそのらせん階段を下から追い立てられるようにして登るほかはなく、後戻りすることが許されない。らせん階段には手すりもない。押し合い圧し合いしながらの階段上りの過程で足を踏み外す者もいる。しかも、その階段はあらかじめに構築されているものではなく、何もない中空に人が足を踏出すことで新たな階段の一段ができていくのである。
中空に足を踏出せない者はその時点で居場所を失う。しかし、人や様々な生命が危なっかしく中空に足を踏出すのは彼らの意志であるかのようにも見えるが、元をただせば立止まることが許されていないのだ。それは「種」の遺伝子の中にあらかじめ刷り込まれた大いなるものの意志によってつき動かされる衝動なのであろう。我々は、否応もなく見る前に飛び続ける存在なのだ。
らせん階段が転倒する歴史の大きな転換点では動揺や混乱は避けられない。その中で新たなものが生まれ、逆に滅びゆくものもある。
そして、らせん階段の転倒とともに、人はそれまでとは異なる方向軸(歴史の軸)の、より大きな回転径(世界の広がり)を持つ、新しい階段を登っていくことになる。階段の転倒にともなう混乱がおさまり、安定した回転がはじまると、人は初めて新しい時代に生きていることに気付く。個人の成長過程も、社会や宇宙の歴史も同様なのである。
しかし、慎重に歴史と時代の変化を見つめれば、らせん階段の転倒は予測可能であり、また次の回転軸の方向がどちらに向いているのかも見当が付くものなのではないだろうか。
そして、自らの意志をもって目に見えぬ中空の階段に足を踏出す者(未来を築こうとする者)にこそ、次の一段があることが確認できる。未来は歩み出すことによってこそ見えてくるのだ。
しかし、歴史の転換を無視して己の立場に固執する者、長い歴史からすればほんの一瞬に過ぎない「今」を生きている者の経験にだけ依拠する者には、それは見えてこない。歴史の矛盾が極限までに積み重なった時に、今、持っているものをあえて捨てることもできる者が、歴史の階段から振り落されることもなく、幕間のピエロにもならず、次の未来へ踏出すことができるのだ。
そして多分、己に確信を持って生きられる人とは、自ら中空に足を踏出す人のことなのではないか。事業や商売のことだけでなく、人生のテーマとして踏出す人もいる。そのために困難を背負うこともあるかもしれない。しかし、彼こそ、誰にも評価をされなかったとしても、生きようと思った人生を歴史の中に刻みながら生きることのできる、真の「成功者」たり得る人なのではないだろうか。
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