編集長コラム | ||
農業を金縛りにしてきたもの | 農業経営者 12月号 | (1998/12/01)
すでに「食管法」は無い。しかし、この間、農業人たちを縛ってきたのは「食管法」の法規そのものではなく、それを温存させ続けてきた農業界を支配してきた精神風土なのである。そして、多くの農家とその関連業界人を含む農業関係者たちは、まだ、その後遺症に苦しんでいる。
食管法本来の目的が曖昧となり、農業保護と農業関連の団体や企業の利権を保障するものでしか無くなった後も、建前と現実の矛盾をつくろいその利権を守るために、様々な形で膨大な農業予算が投じられてきた。その結果は、農業を政治と官僚支配と被害者意識と利権の渦巻く世界にしてしまった。そして、食管法に象徴される農業界の論理や精神構造が、我が国が途上国か社会主義国家の国民であるかのように農民と農業にかかわる者の自由と自立と誇りを奪い続け、誠実に農業者としての本義を果し、事業者として社会に貢献することを望む者を排除し続け、ある者はその生贄とされてきたのである。
食管法は稲作農家に対して、職業倫理の基本ともいうべき自分で作ったものを自らの責任で売ることを罪として罰し、自らの責任で売らぬことを義務として押付けてきた。農家も米流通販売業者も、本来なら健全な商行為であるはずの売買を「ヤミ米売買」あるいは「不正規流通」という後ろめたさを持ちながら、それでもなお違法を承知でそれを行ってきた。
食管法ほど「法の建前」と現実社会での「本音」が乖離した法律はなかった。昼には農協や役場職員に動員されて「食管死守、ヤミ米追放!」などとノボリを立てハチマキをして村社会のなかで正面切ってそれを行う者を糾弾していたその人が、夜、「ヤミ米」業者に向かって「領収書は出せないよ」などと言いながら「ヤミ米」売買をしていたのである。
それは、表向きの看板を付け替えたり提供されるサービスの呼び方を変えれば公然と営業ができてしまう「売春防止法」の建前と世間の本音ともよく似ていた。
戦時下そして戦後の食糧難の時代に農業生産と国民への食糧供給を確保するという国家経営の根幹にかかわるテーマであった食糧管理法も、貧しさゆえに人身売買が存在する時代に女性の人権を守ろうという売春防止法も、その制定時には正当な目的や社会正義の背景があった。しかし、すでに歴史的役目を終えた法や制度や建前としての社会正義が規制によって構造化され官僚主義のなかで絶対化されることで、正義の退廃は始まる。そこに利権が生まれ、また建前をつくろうための嘘が横行するのである。
今、我が国の農家と農業界と関連産業人たちが抱える課題であり、越えていかねばならない苦しみとは、社会主義政権の崩壊と共に窮乏の中で国家の再建と産業の再興に取り組む旧社会主義国家群の人々と同一のものなのである。それは、単に経済改革や技術の問題ではなく我々の「精神風土」の問題なのである。必要なのは農業者と農業関係者たちの「精神のリハビリ」なのではないか。
都会育ちの若者の中にたくさんの農業を夢見る者がいて、その反対に農家の子供たちが農業を捨ててきたのは、そうした農業界のそして親たちの精神風土を嫌ってのことではないのか。
そして、そのリハビリの第一歩は農業界がそして農家たちが「お客様」を知ることなのではないかと思う。農業は農家や農業自身のためにあるのではなく、農家自身を含めた消費者のためにあるのだということを。そして自らを必要としてくれる者のいることに感謝し、そして誇りとすることなのではないか。
リハビリは楽なことではない。辛さや傷みを伴うものなのだ。それでも思い通りに動かぬ体を、傷む手を、動かぬ足を、少しづつ自らの意志で動かす努力をすることなのである。昨日より今日、そして明日に、やがて昔の様なもっと自由で軽やかな自分自身を取り戻すことを信じて。
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