編集長コラム | ||
嫌なら辞めろ! | 農業経営者 7月号 | (1999/07/01)
きっと誰にもそんなことはあるはずだ。正直に言えば、僕もなんでこんな仕事を続けているのだろうと思うことがある。そんな時、僕は
「嫌なら辞めろ!」
と自分に向かって言ってみることにしている。励ましの言葉として。
もっとも、「家を継がねばならなかった」などとやむを得ず仕事をしている人も、実は、やむを得ずその仕事をすることを自ら選んでいるのである。むしろ、彼は辞めないことを自ら選びながら、その苦痛や葛藤を自分以外の何かの責任にして「被害者意識」という精神の安楽椅子で人生の時を無駄にやり過ごしているのだ。
そんな彼には、自分の心の居場所をもう一段上のステージに置こうとしない限り望むべき場所や仕事は与えられないのだ。そして、嫌だと思っている今の仕事に彼が本当に求めている物があるのかもしれないのだ。
肩書きや機能としての経営者ばかりでなく、誇りある職業人なら誰でも、当然のごとく家族、社員、顧客などに対する責任を持っている。そんなことは当たり前なのだ。そして口には出さずとも、社会や歴史そして未来に対して何らかの役割を果たしたいという思いがあるはずだ。
僕はこの雑誌の中で「経営者」とりわけ「農業経営者」という言葉に特別の思いを込めて使ってきた。敢えて言えばこの雑誌は、GHQの手で行われた農地解放によって農業の経営者としての地位から追放され、農林官僚と農協官僚たちにその地位を取って代わられてきた、かつての在村地主や自作農たちを現代の「農業経営者」として復権させ、その誇りと能力とを現代に取り戻すことを目的の一つとしていると言っても良い。
農業経営者とは、ただ農作業に労役の対価を求めるだけの農民ではない。未来に向かって投資をし、未来のために利益を得る経営を創造しようとする者である。しかし、単に経営規模や売り上げの大小が問題なのではない。それは手段に過ぎないというべきだ。無論、利益の上がらぬ経営は続かないだろう。また、機能としての経営者は利益を追求する存在である。自由な競争と健全な競争者の拮抗関係の中で生まれてくる社会の発展が資本主義の原理だからだ。しかし、それだけなのだろうか。むしろ利益とは目的ではなく結果なのであり、未来への手段なのだと考えるのは間違いだろうか。そして、自らの人生を含め未来に投資をする者が経営者であると僕は考えたい。
人は人生という舞台の上で、自ら台本を書き演出するドラマの中で自らが与えた役柄を演じつつ、それを見続けているのではないだろうか。自意識過剰と言われようとも、それが人なのではないか。
人に必要とされたいとは願っても、それは誰に頼まれるからでも命じられるからでもない。そうしたいからするのだ。義務の対価としての権利や経済的豊かさを求めるのではなく、自らの誇りや自負心において果たすべき責務を自覚できることを生きる甲斐と感じられる者。その目的のために利益を追求し、それに献身できる者を僕は経営者と呼びたい。
農業関係者が集まる場所での「ご挨拶」の定番は「農業危機」と決まっている。また、不平を言いながら我慢をし、外からのあるいは支配者からの指示を待ち続け、自ら変革の担い手として生きようとはしない農民たち。僕はそんな人々の間に身を置くのはもう御免だ。
我々は誰かに頼まれて生きているわけでもなく、何がきっかけであったにせよ自らこの仕事を選んだのである。農業に泣き言をいう人々よ、誰も貴方に農業を続けてくれとは頼んではいないのだ。
「嫌なら辞めろ!」。そして、今こそ農業経営者の時代なのだ。
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