編集長コラム | ||
村井信仁・67歳の新規就農 | 農業経営者 5月号 | (2000/05/01)
1932年、福島県生まれの先生は現在67歳。1955年に帯広畜産大学を卒業し、当時の山田トンボ農機€€に入社し、そこで金床とハンマーを振るうことから農業との関わりが始まったと伺っている。その後、在外農業技術指導者としてインド、インドネシアなどに赴任。帰国後は北海道庁に入り道内各地の試験場で農業機械の研究者として活躍した。1998年、北海道立中央農業試験場農業機械部長の職を最後に定年を待たずして現職に付いた。
北海道農業機械工業会の専務理事の職を退任して、先生がこれから取り組まれようとしているのは、農家になること。67歳の新規就農者である。
長い交渉の末、すでに農地も取得した。60歳が上限年齢だという農地取得の条件についても、とても実年齢を想像できない身体年齢の若さとともに、その能力や意欲はもとより、これまでも小規模な借地で続けてきた経営実験や消費者グループに対する「食」と「農業」を繋げる啓蒙活動の実績などが、農業委員会を動かしたのではなかろうか。
村井先生は優れた農業機械研究開発者(農学博士)である。同時に、土と農業、農業技術、農業労働、農業経営に関する類稀れな解説者であり実践的指導者である。それは先生の人柄だけでなく、中心的フィールドであった北海道内はもとより国内各地は言うに及ばず、中国、インド、東南アジア諸国、中南米諸国での農家、農業指導者、農機メーカーに対する指導体験、欧米先進各国での調査によって培われ、それをふまえた歴史や風土そして人間に対する深い洞察力に支えられている。
先日、電話で先生と話した。
「世襲の事業なんて古臭いと言うかもしれないが、農業という仕事は親子代々世襲されることでこそ、その本質が受け継がれていくものだ。自分もやればやるほどその難しさがわかる。技術はある程度マニュアル化できても、本当の優れた農家になるために学ぶべきことはあまりにも多い」そして「篤農家の言葉は篤農家だからこそ理解できる」と先生は言う。篤農家が持っている土や自然の理解、農業の智恵、あるいは農業経営者としての誇りや生き方というものも、子供が親の生き様を目の当りにし、仕事の手伝いや暮らしの躾、その風土に生きることで身に付けていく。それをマニュアル化することはおよそ不可能だ、と先生は考えているのだろう。 先日、電話で先生と話した。
農業指導者としての人生の集大成として自ら農場を開き、そこで先生が農家になるからこそ見えるものを、他の農業経営者や関連企業人へ、そして€€食べる人€€に伝えていこうと考えておられるのだろう。
先生は、求められ、しかも自ら思うままに、研究者として、農業指導者として、業界のリーダーとして、次々と新しいステージで活躍されてきた。しかし、筆者が知る30年近いお付き合いの中で、私心で振舞う先生の姿を見たことがない。村井先生の生き様、果たす役割の大きさ、そのエネルギーに敬服してきた。
受け継ぐものの有り難味を知らず、恵まれた環境の中でボヤキを吐きつづける若き老人たちよ、村井先生を見よ!
「俺はそんな年寄りではないし、大層なこと考えてないよ、やりたいだけさ」と先生に笑われそうだ。この後は「晴耕雨読」ならぬ「晴耕雨書」を目指すとおっしゃる。果たせていないという幾つかの論文をおまとめいただいた後に、「村井信仁・67歳新規就農日記」と題した原稿を書いていただくことを本誌は勝手に考えている。
先生、有り難うございました。
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