編集長コラム | ||
売らずして「売れぬ」と言うな | 農業経営者 12月号 | (2000/12/01)
ファーマーズマーケット、農家の店、日曜市、直売所、行商、庭先販売。呼び名は様々であるが、そこには自ら顧客と出会い『売ること』あるいは『商売』に取り組むことへの意欲があふれている。それは地場流通の活性化という以上に農業界の意識改革を促すものになっていくのではないか。
その中心になっているのは女性だ。そして、行政や農協のリードというより販売者たちの自由な競争や健康な商売への熱意こそが販売所を活気付けている。チャンスは誰にも平等に与えられるが、結果は平等ではない。顧客に選ばれる競争、顧客との出会いを通して商売する喜びに気付いていく。
農家を取材してきて、ある世代以上の男たちの多くが「商売」あるいは「商人」という言葉にある種の悪意や軽蔑を込めて使っているのを感じてきた。いまだに士農工商の論理にしばられ農本主義の論理に支配され続けているのだ。
農業界や男たちの硬直した論理、見栄や面子にこだわりながら居場所を失う焦りにうろたえている間に、販売所に立つ女たちは自ら売ること、お客さん(食べる人)と出会うことを通して男たちを乗り越えていっているのだと思う。
ただ気位が高いだけや自尊心だけの傲慢な精神と、誇り高い職業人であることとは違う。彼女等はそんなこだわりすらも必要とはしていないが、農業界の男たちもそろそろ€€腰を低くして背筋をピンと伸ばした€€商売人のプライドに気付くべきではないか。
どこの世界にも悪意の人間はいる。一度や二度であればお客を騙すことはできるかもしれない。でも、やがてその商人は市場から淘汰されていくのだ。収奪ではなく土に戻し続けることを厭わぬ農民が、種を播けば作物が勝手に育つ土を造り、それゆえに豊かになるごとく、お客に戻し続ける商人が選ばれて残っていく。売れない苦しみを知ればこそ、お客のありがたさが解る。彼女等はそれを知った。
『農業は農家のためにではなく食べる人のためにある』という本誌の立場に対して、相変わらず怒りを込めて批判する人が少なくない。また、これまでの農業界は、自らの弱さを言いたて、農業の大事さを主張し、食糧の自給率を政治力によって定めることを主張し、それゆえの保護を求めることには熱心であっても、自ら食べる人に求められるべく自己改革する努力をどれだけしてきたのか。日本農業が日本の消費者に選ばれる努力を。自らの居場所作りに躍起となることよりも、自らが誰のために働き、誰に必要とされるべきなのかを問い、そしてそのために何をすべきなのかを考えようではないか。
もう売れぬ押し売りのボヤキに過ぎないような愚痴は止めよう。自ら売らずして「売れない」などとは言うべきではないのだ。米が過剰だと言われてすでに30年も経っている。米の自由化の方向が定まり、米価水準が今のレベルあるいはさらに下がるであろうことは、少なくとも本誌が創刊された1993年には既定の事実となっていたではないか。そろそろ買い手市場の競争の中で顧客に選ばれる者の誇りを求めようではないか。
困難は承知である。でも、売る努力が無いから出会えていない沢山の顧客がいるのではないか。例えば、従来の流通以外にも消費者向けの産直や米穀店への営業をしてきたかもしれない。でも、どれだけの食堂、ラーメン屋さん、蕎麦屋さん、鰻屋さんや仕出屋さんに向けて営業したか。あなたの町に、そして隣の市には何軒の飲食店があるか数えてみたことはあるか。それを虱潰しに回ってみたか。10軒、20軒、それとも百軒? その程度のことで挫けているのではないか。
事務所のある高田馬場周辺の飲食店で尋ねてみた。すると、家族経営あるいは一人二人の使用人でやっている生業レベルの食堂の店主たちの多くが、現在仕入れているお米に不満を持っておリ、素性の知れた生産者から直接仕入れることを希望していた。そして、彼ら生業レベルの飲食店主たちは自分たちに提供される情報の少なさを嘆いていた。
ある中華料理屋のご主人は現在キロ350円で週に180キロのコシヒカリを滋賀県のお米屋から仕入れているが、不満を持っている。価格ではない食味においてだ。仮に、精米にして380円あるいは400円で毎週コンスタントに出荷できるとしたらそれは農家にとって十分に見合う価格ではないだろうか。
当社では雑誌『農業経営者』の発行をベースにしてFAXによる(近日中にインターネットでの情報提供も行う)情報提供サービスを行っている。そのノウハウを活かし、生業レベルの飲食業者に向けて、雑誌『農業経営者』が推薦する米を中心としたFAXによる生産者情報の提供サービスを開始する。詳しくは弊社まで問い合わせられたい。
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