編集長コラム | ||
ピエロと化す往年の名選手たち | 農業経営者 7月号 | (2001/07/01)
それは典型的な形で示された“村”社会での多数派による己を危うくするチャレンジャーや新時代を切り開く者へのイジメに見える。同時にそれは現代の日本とその中にある様々な業界(むら)を支配してきたお山の大将たちやその取り巻きたちが、歴史の地殻変動に揺れる砂山の上でうろたえている姿でもあるのだ。
キャンプ中やオープン戦に登場するイチローや新庄には「あれでは大リーグには通用しない」と言い、それでも活躍を続けると、今度は「大リーグの厳しいシーズンを通して活躍できるものだろうか?」と表現を変え、さらには「大リーグの力も落ちたものだ」などと負け惜しみ、そして、今では匙を投げたように「アッパレッ」などと自暴自棄になって白旗を揚げている。
その言葉の裏にあるものは、日本プロ野球界に見切りをつけた選手に対する怨念と嫉妬である。彼らが挫折してもとの村に戻ってきて、自らの安住の居場所を守って欲しいのだ。残念ながらそれは、一瞬であろうとも自分を見て育ち、あるいは自分と同じ野球人の遺伝子を受け継ぎ、未来を切り開く優れた後輩たちの成功を祈る者の姿ではない。彼らがなぜ日本の野球界を見限ったのか、何時の間にか誇りなく死に至る安楽椅子に座り込んでいる己の姿を問わぬまま、見切りをつけた若者たちを逆恨みする者の老醜、あるいは寄生虫の自己主張のようなものなのである。
ラジオにかじりついて野球を聞いていた時代、アナウンサーが呼ぶその名前を憧れと共に聞いた人物。僕にとっての始めての野球観戦だった東映フライヤーズ対南海ホークス戦。薄暗いナイター設備の駒沢球場左翼席で、目の前に立っていただぶだぶのユニホーム姿に見とれ、家に帰ってもその独特の仕草を真似たスラッガー。かつて憧れた名選手がメディアでピエロを演じている姿に、僕は終戦を知らず南の島で命じられるがままひとり取り残されて戦い続け、現代の浦島太郎となって日本に戻り、挙句はメディアと政治の玩具にされたあの下士官と同じ哀れさを感じる。
彼らは日本人の誰もが貧しかった時代の成功者であり、そこでの成功体験や大リーグに対する劣等感を土台にした話しをしているのだ。でも、彼らが手にした豊かさや彼らを満足させた小さな村内での名声を餌にチャレンジャーたちを押し留めようとしても、イチローや新庄は日本の野球界から示された破格と思われた契約金や安泰の地位には目もくれない。それは、彼らが異星人だからではなく、未来への挑戦に生きているからなのだ。そして、彼らが求めているものとはそれに取り組むことからしか与えられない「誇り」だからである。彼らは、老人たちがそれを手段として自らを励ました大リーグへの「劣等感」など持ち合わせていないのである。そして、未来を切り開く若者に与えられるべきものは、唯一、彼の「誇りを擁護すること」である。
人は銀シャリの丼飯に目の色を変えないのだ。時代をリードする若者は村役場や中小企業の玄関に銅像を建てて貰う身分に出世することを望んではいない。しかし、農業の世界を典型として日本の社会や企業をリードしている人々の論理とは、それに憧れた時代の論理や精神を一歩も出ていないのだ。
とりわけ農業とその関連業界には、TV番組で名選手たちが演じているのと同じ精神構造を背景にしている人々が山ほどいるのである。そして、僕自身を含めて、人はあの往年の名選手と同じ役柄を演じてしまう性を持っているのである。
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