編集長コラム | ||
農業と食産業界のロボットたちよ | 農業経営者 4月号 | (2002/04/01)
さらに、告発される企業人や政治家や官僚たちによる様々な”事件”も、彼等が演じる”犯罪”や”腐敗”というより、その”想像力の欠如”や”感覚麻痺”に由来するものであることを、より深刻に受け止めるべきなのだと僕は思う。そして、彼らがその糾弾を受けてもカエルの面にナントカを決め込めるのは、彼等の振る舞いが彼等の”悪意”からではなく、自らが背負っている”責務”を果たすべく行っているのだと認識しているからである。彼等がそれを通して利殖の手段や天下り先を確保し得たとしても、彼等の意識の中では責務を果たすための手段であり結果だと信じて疑わないのである。そして、我々もまた、彼等がもたらす恩恵に与ってきた者の一人だと自覚すべきなのである。
一方では、スーパーでの米や野菜の安売りが減り、低迷する野菜市況にも上向きの条件をもたらすかもしれない。まともな直売所や農家からの産直には今以上に人気が集まることもあるだろう。しかし、農業経営者もまた少なからずの影響を受けることは避けられないのだ。真価を問われるのはその後だからである。
我々は突破口の見えない焦燥感を解消するために”魔女狩り”をして自らの不満のガス抜きをすることではなく、我々の社会の行詰まりの根本原因を自らのありようを含めて問い直す必要があるのだ。 話を農業と食の業界に話を戻そう。問題は、雪印食品や全農チキンフーズだけでなく、これからも出てくるであろう”あげられる”供給側企業や団体だけの問題なのだろうか。消費サイドの小売りや外食などの業界人で、僅かでも理性を持った人々であれば、現在生じている”食の信用恐慌”について、自らの”未必の故意”を感じるはずだ。消費者の不安と不信を裏返したマーケティングとしてあった”有機無農薬ブーム”(馬鹿げたというべき現在の認証制度やJASの表示はその結果であろう)を作ったのは誰か、デフレ経済の中で己の生き残りのために納入業者に不正を行わさせる要求をしなかっただろうか。スーパーで米が売れずに農家産直が増えるのは、スーパーの安売り要請の結果ツジツマ合わせをする卸が招いている顧客離れではないのか。
繰返して言う。問題の深刻さは、ジャーナリズムが正義を振りかざして糾弾する”悪意を自覚する者”たちによってそれが行われていると考えるべきではないのだ。それは”没倫理的”であるが真面目なサラリーマン(ロボット)たちによって演じられていることなのである。さらに、”食産業”を構成する農業界を含めた各企業や団体が、それぞれ食の流通のツジツマを合わせるために一所懸命に、しかし”全体像”を省みることなく、自らの存在理由を問わぬことの中から事件は発生しているのである。
種蒔きロボットに過ぎぬ農家は”食べる者”あるいは誰のために農業があるのかを想像せず、流通業者は誰のため何のために物流管理しているのかを考えぬ単なるトラックか倉庫に、量販店は流行り物や顧客を煽るだけの自動販売機か単なる商品棚の管理人に、そして外食業は農産物というより物としての”食材”を煮炊きするだけの調理ロボットに過ぎなくなっていると言ったら言い過ぎだろうか。さらに、現代の食を保障していることに自負を持つべき農機具や肥料メーカーや消費者の槍玉に上がる農薬メーカーとても、農家を目の前の顧客としながらも”食べる者”のためにその仕事があるのだ、という”あたりまえ”の職業的想像力を持とうとしていない。
それぞれの企業の創業の時に創業者たちは、あるいは初々しい新人としてその職業に初めて触れた時の新職業人たちは、もっと理想を持っていたのではないか。
生産技術の向上や作業合理化による生産性を上げることには熱心であっても、何のために自分の仕事があるのだという問いを持たないという企業社会になってしまった。ただ作業を為す”作業者”ではありえても、「食べる者のために」自分の仕事があるという”職業人”としての目的意識や社会性を持つことへの”誇り”や”喜び”を見詰めてこなかった。たぶん、企業の会社案内には必ずそうしたことが書いてあるはずなのだ。しかし、まさにそれらの企業にとってその企業理念や創業の精神が空念仏になっていることこそを経営者たちは問うべきなのだ。トカゲの尻尾を切り、カメラの前で頭を下げ、法的責任を取ることだけでは足りないのである。農業経営者を含む全ての経営者そして誇りある職業人は、己自身に向けて、自分たちは社会に対してどのような存在であろうとしているのかを問うべきなのである。自らの事業の永続性のためにその経営の倫理を問うべきなのである。
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