編集長コラム | ||
自らを問えぬのなら、未来を創る者に道を譲れ | 農業経営者 6月号 | (2002/06/01)
ところで、そんな枕詞付きの挨拶で始まる会合の後には、いまだにコンパニオンのネーチャン付き宴会というのが通 り相場だ。その度に「これ誰の金で飲ンでるの?」と訊ねたくなる。それは「○○県××認定農業者研修会」とか「△○町凸 凹農業経営研究会」とかの行政機関やそれに順ずる団体名が名を連ねる会合である。皆が自腹でする村の寄り合いとは違うのだ。僕だってネーチャンは嫌いじゃない。宴会を止めろとまでは言わない。でも、こんな時代になってもまだそれに疑問をもたないでいる農業経営者たちは失礼ながら時代錯誤だと思う。
情報の一元化と補助金と集落の縛り、そして農民の名誉心をくすぐり、僅かな特権意識や彼らとの共犯意識を持たせることで行政や農協は農家を縛り続けてきたとも言えるのだ。冷静に考えてみれば農業経営者のために関係者がいるのか、農業関係者のために農家がいるのか?
ずっと以前から「農業問題」とは僕を含むその関係者の「居場所作り」のネタなのだ。
本来、政治家も役人も農協も関連企業も農業にとって必要な存在であり、ともに食べる者への責務を共有すべき同伴者である。しかし、僕自身や我が社を含めて、行政や農協やあらゆる農業関係の企業関係者も、そして農業経営者たちもまた、これまでの在り様、その存在理由が問われている時代なのだ。今が困難な時代だからこそ誰もサバイバルゲームに狂奔している。競争は必要である。でも、それは「必要とされる競争」なのだ。目の前にいる取引相手や利害を共有するものだけしか見えない者、自らの居場所作りをするために建前を語ることしかできない者は退場していかざるを得ない時代なのだ。
この雑誌を創刊する前後の農政運動盛んなりし頃、「動員されて国会デモしてきた帰りなのだけど一杯やろうよ」と笑いながら、支給された交通 費でチャッカリ我が社を訪ねてくる同世代の農業経営者がいた。初めからそのつもりで用意した手土産を持って。事務所のストーブでスルメや丸干しや干し芋などを焼きながら、僕の貧乏事務所をからかい、自分自身の存在を含めたおかしさをもうひとつの肴にしながら、酒を飲み交わした。
「あの正義面の経済連職員は気に食わねんだ」「トンデモネー野郎だな。でも、今に消えるよ」なんて笑いながら。彼は米輸入自由化反対を叫ぶために漫画のような衣装まで着せられて東京の町を練り歩かされたのだ。
嘘ばっかりの建前の議論にはウンザリしながら、そんな中でそれぞれに生きている自分自身をお互いに笑って見せた。彼と僕が立場の異なる異質な存在であるからこそお互いを合わせ鏡とすることで気付くこともあった。
受け継いできたものを守る責務を強く自覚しながら、そこに棲むことの心地良さと鬱陶しさを感じつつもがいていたのが我等の世代なのかもしれない。しかし、そんな照れ笑いをしていられる時代は終わってしまった。
すでに農業の世界にも素晴らしい青年たちが育っている。文字通り豊かさの中で育ってきた20代、30代の青年たちが農業の前面 に登場するようになった。彼らはキチンと歴史を受け継ぎつつ未来を創り出す誇りにも満ちている。未来は彼らのものである。もし自己改革できぬ 我等であるのなら、もう道は彼らに譲り渡すべきなのである。
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