編集長コラム | ||
最終販売者の経営倫理と説明責任 | 農業経営者 9月号 | (2002/09/01)
土門氏がイニシャルで「巨悪」と名指しした日本ハムが大きな批判を受けている。当然のことである。名は伏せても「畜肉業界最大手で某球団のオーナー」と書かれた記事は少し掲載に気を使うものであったが、その情報の正しさが確認された。一般のメディアでは伝えられることのない(伝えようとしない)情報を読者に提供する目的で同氏に健筆を揮って頂いている“時々刻々”のコーナーなのである。
今、食品それも食肉や生鮮・加工野菜の流通に関する業界スキャンダルが堰を切ったように事件化されるのはなぜだろうか。これまでこの世界の住人たちが素朴な善良な人々であり、そこに犯罪が存在しなかったわけではあるまい。
それはこの世界があまりにも行政と政治の支配を受けたために、農業界や食品流通業界が特殊な世界になってしまい、そこだけで通用する特殊な論理や非常識が外からは容易に問題にし難かっただけなのだ。そして、とかく批判の対象となる政治家や官僚あるいは農業団体や業界の黒幕たちだけでなく、農業にかかわる多くの人々もまた程度の差こそあれその利益のおこぼれに与る当事者として無法を知りながら黙認してきてしまったのである。そのために、内部からの健全な批判や自己改革が進められてこなかった。自らのアイデンティティの源泉であり安住の居場所を保障してくれる“オラが村”を誰も壊したいとは誰も思わないからだ。そのような“無法の常態化”のために、未だに自らの振る舞いの違法性にすら気付かぬ人々が少なくない。
告発されているような消費者を騙す農産物表示の“嘘”や告発されているような補助金の不正受給ばかりでなく、農業界の様々な補助金や奨励金の受給においては個人や組織にかかわらず不正の事例は掃いて捨てるほど存在するのではなかろうか。にもかかわらず、そうした補助金や生産者(供給者)保護を保障する政策の背景にあるものが、弱者としての農民や農村の保護や生産振興、あるいは差別の対象となる者の救済や権利を保障すること、国土の保全や食料供給という、誰にとっても否定しがたいものであるゆえに、その頽廃を問題化することを人々は避けてきた。
しかし、これまで農業の世界を支配してきた論理が破綻し、その構造が内部からも崩壊しつつあるのだ。
日本ハム事件に話を戻せば、その経営者たちだけでなく、今になって販売自粛を“指導”する農水省の官僚こそ、業界と利害を共有する共犯者であり自ら当事者として責任を問われるべきである。にもかかわらず、日本ハムの経営者たちが流しているのは自らの企業経営を危うくさせたことへの悔悟の涙であり、神妙な顔をしてもっともらしく「食の信頼回復」を語る農水官僚たちが頭を下げているのは問題がジャーナリズムに取り上げられたことで行政権力組織に傷を付け省益を損ね業界を危うくしたことへの内向きの反省としてなのである。それは国民や消費者に向けてのものだと言わざるを得ない。
なぜなら、業界人なら誰もが暗黙の内に放置することでそれに了解を与えてきた無法を、今さらながら業界トップ企業の社長や官僚たちが知らなかったというのであれば、その弁解こそが“嘘”である。国民や消費者にとってそれはさらなる不信と不安の原因にしかならないものである。
今になって「消費者に軸足を移して」などと断るまでもなく、もとより“農業は食べる者のためにある”のであり農民や農業関係者のためのものではないのだ。むしろ、それを自覚してこなかったものが消費者(市場社会)によって裁かれていると考えるべきなのである。それを回復させるには、官僚の作文で与えられる“お墨付き”や、規制や罰則の強化では足りないのである。本物の商売人が顧客に与える信頼こそがその答えなのである。
現代は“生産者”と“消費者”という対立の中で農業生産やその流通・消費を考える時代ではない。我々はすべからく“お天道様の消費者”であることを自覚し、顧客に選ばれるための“経営倫理”を持ち得る事業者が消費者の信頼を得るのだ。
そんな時代であればこそ、農業生産に関与する者の意識改革が必要であるのは言うまでもない。しかし、現代の農産物消費において大きな影響力と役割を果たしている量販店や外食業者の責務はさらに大きい。その役割は、調達者としてのご都合主義に過ぎぬ流通合理化や栽培履歴表示を農業に求め、商品棚にそれを掲示することが本質ではない。最終販売者たる彼らが新規農薬の登録に関する負担を含めて採用すべき農業生産技術の検討やその導入について、生産者や生産技術開発企業と共に取り組み、自ら農業生産についての説明責任を果たす存在となっていくべきなのである。
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