編集長コラム | ||
素のままの人間が考えた本来のあたりまえさとは何? | 農業経営者 6月号 | (2003/06/01)
「いいか、頭で考えるなよ、頭で。自分の口と胃袋とケツの穴、それにチンポコと手足の皮膚や筋肉で考える、あるいは深くテツガクしてみるんだよ。汗だ汗。痛みだ、涙だ、よろこびだ」
まことに品がないし、ほとんど宗教の世界。そして、こう続ける。
俺たち凡人が“頭で考えた”と思っていることのほとんどは、実は自分の頭で考えたことじゃないよな。ほとんどは世間や誰かの話を受け売りしているだけ。だから、“何故?”と問われると、その理屈ごと受け売りするか、言葉に詰まってしまう。なかには“昔からそうだった”、あるいは “皆がそう言っている”などと、他人や世間の尻馬にしか乗ることしかできぬ無責任な暢気者もいる。でも、“昔”とは“何時”?“皆”とは“誰”?
被害者意識は止めにしよう。そのツケは払わさせられるのだ。誰かが何とかしてくれるだろうなんて思っているかもしれないが、これからはそうはいかない。それぞれが始末をつけなきゃいけない。むしろ、今の我々がふんぞり返っている安楽椅子というものは、たまたま今の日本人に与えられている幸運に過ぎないのだ。
ヒージーちゃんやヒーバーちゃんより前の日本人が今の時代を生きていたとしたら、こんな都合のよい世界や便利な技術や科学知識や情報手段や法や制度が存在し、しかもこんなふんだんな浪費までできてしまう時代に生きていたとしたら、どう振舞ったかだろうか。まずは、“アリガタヤ、アリガタヤ…”と彼らの体が語り出しただろう。でも、それに溺れるだろうか。人が生き延びるための生れながらの欲と智恵を失っていない“素のままの人間”であったとしたら、そしてアリガタヤと声が出てしまうほどの生き物としての“存在の畏れ”とでもいうものを知っていた彼らは、現代の我々とは違う振る舞いをしていたのではないだろうか。
世界を食い散らかしながらの地産地消、世界中から石油を輸入し、エサを輸入して家畜のウンコで溺れそうになりながらの食料自給、日本農業を守れだとかの議論…。これまで当然と思われてきたことが通用しなくなる時代なのだ。さらに、欠乏ではなく過剰、飢えではなく飽食こそが我々の困難の源泉になっている。だからこそ本誌も“生産者⇔消費者”などと言う視点ではなく、皆がお天道様の消費者であり、農業者とはその最前線にいるだけだとの認識から農業を考えようなどと言うのだ。農業経営を考える上でも、経営者のありようとしても、社会の生産力ではなく消費力の持つ意味を考えようと言うのだ。
そんな時代だからこそ、我々の“あたりまえ”を疑って見る必要がある。
腹が減れば何か食いたい。また、食べ物は美味かったり不味かったりする。人はパンのみで生きてはいないかもしれないが、食べる事とは生きることそのものだ。“飢え”が実感されないから、食と命が繋がっていることを実感できないでいる。食べればおなかが一杯になるが、やがてウンコも出る。食あたりもすれば下痢もする。ウンコすればケツの始末をせねばならない。出したウンコもそのままにしておくわけにもいかない。そしてチンポコ。それに由来するままならぬ情動は人生の歓びの源泉でもあり、人はそれに悩みもする。しかも、それはヒトという種や家族や民族の未来にも繋がっている。それから、働かなけりゃ飯にはありつけないが、筋肉を使えば痛くもなる。小賢しく働けばヒトを出し抜くことも可能だが、所詮、仏様の掌の上のこと。
そんな素のままのヒト、あるいは動物としての我々を、邪魔な情報の詰まった頭ではなく、直接的な生理において理解して見ることを勧めるわけだ。
それによって、本当にそれが自分の目で見たこと?納得したこと?思ったこと?考えたことなのか?を反省できる。そうすると、今、あたりまえだと思っていることのおかしさに気付き、皆が語り、振舞っているあたりまえさではなく、本来のあたりまえさとは何かが見えてくるのではないだろうか。お天道様の程を超えてしまった存在としての我々という意味を理解した上で…。
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