編集長コラム | ||
あえて冷害被害者の管理責任を問う | 農業経営者 10月号 | (2003/10/01)
筆者が聞いた限りでは、ほとんどの読者の水田では、周辺農家の被害状況とは異なり、品種や水田条件などによっての減収はあるものの概ね平年並みあるいはやや減収という程度にとどまっている。そして、異口同音に、10年前との条件の違いを話していた。それは耐冷性の品種の導入であり、オリゼメート等の薬剤それも箱施用剤などの普及、あるいは良食味米生産に焦点を併せた減肥指導などである。そうした技術環境の違いを考えれば、適正な圃場と栽培管理をしてさえいれば誰であってもこんなひどい被害は受けないで済むはずだと多くの読者は言うのだ。さらに、少なからぬ 読者が、これは気象災害というより、駄農の怠慢が招いた被害の大きさであり、それでまたぞろ共済だ、“被災者救済”などと騒がれること首をかしげていた。
おりしも、9月10日からカンクン(メキシコ)で開かれていたWTO(世界貿易機関)の第5回閣僚会議が交渉の継続を確認するだけで、何らの合意も得られずに閉幕した。農業関係者の中には新ラウンドの遅れをホッとした思いで見詰めている者もいるが、それはとんでもない誤りである。一方、閣僚会議に臨んだ亀井善之農水相が帰国後の記者会見で「消費者の期待の期待に応えて農業の構造改革を進めることは時代の要請。スピード感が必要だ」として農業改革の推進を強調したと9月18日付けの産経新聞が報道しているが、今、農水相が語るべきコメントとして当を得ていると思う。
農産物貿易の既得権を主張し、あるいはそれを守るために主張することを否定しているわけではない。しかし、今年の冷害被害の生産現場での様相を見ると、指導されている標準的技術を行うことだけでかなりの被害回避が可能であったという読者の話が事実であるとすれば、冷害を受けてしまう農家の存在をどう考えればよいのだろう。我々は何を守ろうとしているのか。
被害を受けている方々には鞭打つような発言だと思われるだろうが、あえて申し上げる。
全ての冷害を受けている農家を、これまでと同様に、単に気象災害の被害者という視点でばかり語ることで良いのだろうか。冷害で影響を受けた人々について、市場あるいは顧客から問われるべき米生産担当者あるいは供給者としての管理責任という視点で語る必要はないのだろうか。そうでなければ、様々な農業保護が国民に対して説得力を持てなくなるのではないか。
亀井農水相に限らず、もう皆がそう思っているのにもかかわらず、裸の王様になっている農業界に指を指すことを避けている。保護に頼っている限り我が国の農業は「安楽死」の道しかないことを自覚すべきである。
困難のない経営などと言うものなどありえないのだ。しかし、市場の動向などと言うまでもなく、経営の大小にかかわらずお客さんを持った活き活きとした農業者たちの姿を見ればよい。デフレ経済と言われながら、満足の市場の住人たる日本の消費者たちは、努力するあるいは好感の持てる農家の米を高くとも満足して買っているではないか。
まさに、強い者、大きな者が勝つのではなく、必要とされる者が選ばれる時代なのだ。
それは日本国内だけでなく、中国を始めとした海外市場にコメですら大きな需要が期待できる時代なのだ。さらに、本誌がかねて主張するごとく、中国を始めとするアジア地域での急激な消費の高まりを前提に、日本の優れた農業経営者たちがマーケットサイドの企業とともに、それぞれの国の事業者や国民に利益を還元しつつ必要とされる場が与えられる時代も始まろうとしている。そこでは、これまでの日本の消費体験、日本人の豊かさの体験こそが求められているのである。
農業保護を否定しているわけではない。しかし、日本の農業も価格しか頭に無い政策的保護や貿易交渉によって守られるのではなく、市場あるいは顧客の支持によって存在できる時代なのだと考えるべきだ。しかも、それは国内だけでなく海外の需要者に対しても、ブランドとしての日本農業や豊かさを体験してきた日本人としての知恵や経験を活かせる、世界に必要とされる存在(=国際競争力を持つ)になって来つつあることに我々はもっと自信を持つべきである。
それとも我が農業人たちは、保護によって与えられる日本農業の安楽死への道を選ぶのだろうか。
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