編集長コラム | ||
30年前に起きた“欠乏”から“過剰”への変化 | 農業経営者 11月号 | (2003/11/01)
年代記で言えば、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線が開通した。首都高速道路、東京モノレールが開通したのもこの年だ。その前年(1963年)には日本で始めての高速道路として名神高速道路が開通していた。今でこそ日本はODA大国と言われるが、東海道新幹線は世界銀行からの融資によって建設された。日本はそういう国だった。
政治の季節は終わってしまったのだ。むしろ、1970年(昭和45年)という時代を象徴している国家的イベントは大阪万国博覧会だった。オリンピックの開催と万国博覧会開催は、日本が文字通り先進国の仲間入りをする通過儀礼だった。同時に、それは日本が欠乏から過剰の時代に突入する時代の幕開けだった。
我が国が諸外国からの緊急食料援助を受けるための基礎資料を得るという目的で1945年に始まった厚生省「国民栄養調査」でも、1970年代になると栄養不足は著しく改善されていた。しかも1970年代初めをピークにして、以後、日本人の摂取カロリーは減り続けているのだ。
ファミリーレストラン「すかいらーく」が一号店を開店したのも1970年であり、ファーストフード店のケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツが開店したのも1970年だ。マクドナルドは1971年に日本法人ができている。牛丼の吉野家は1968年に始まっていた。冷凍食品の普及もこの時代からである。
カルビーの松尾雅彦社長によると、同社のかっぱえびせんが売れ始めたのも1972年頃からだと本誌の座談会で話しておられたが、その時代から、日本人にとって“甘さが美味さ”である時代は終わり、子供たちも “軽い塩味”を喜ぶ時代になった。
そして、1970年に生産調整(減反政策)が始まった。
我が国の米生産は食糧管理制度のもとで1960年代後半になると一貫して生産過剰な状態が続いていた。欠乏の時代を象徴するといってもよい食糧管理制度は、1995年まで存続したのだ。その間、食管制度は農業界に利権的恩恵をもたらし続けてきたが、我が国の農業経営と農家の精神を金縛りにしてしまった。むしろ、ソ連が70年間という長すぎるイデオロギー支配の国家制度のために、今だに経済社会のリハビリ過程にいるごとく、農業界の精神のリハビリはまだ必要なようだ。政策的な変化はあっても、我々は、人類が経験したことの無い“欠乏”の時代から“過剰”の時代へという歴史の変化の中にいることを、もっと深く考えるべきではないか。
世の中、そして世界はもう待ってはくれないのだ。そして、そんな変化の中で自らパラダイムの転換ができる者にとっては、日本の農業が置かれている状況とは、歴史上でも農業にその可能性が与えられている時代でもあるのだ。
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