編集長コラム | ||
上海に日本人農業経営者のアンテナショップを作ろう | 農業経営者 12月号 | (2003/12/01)
【「農業経営者」編集長 昆 吉則 -profile
】
上海に行ってきた。11月4日~12日に上海で開かれた「上海国際工業博覧会2003」に出展するためである。当社と法律事務所ホームロイヤーズ(代表・西田研志弁護士)および上海法援コンサルティング会社(上海法援投資咨詢有限公司)が共同で、中国進出に関心を持つ農業関連企業の技術・商品情報を中国に紹介する展示を行ったものである。中国人参観者の我々の展示に対する関心は驚くほど高く、日本の技術や農業関連企業に注目する貪欲ともいえるビジネスマインドを感じた。
展示会場には今の中国にとって最大の国威発揚のシンボルである宇宙船「神舟5号」の実物が展示され、先端のIT関連技術や自動車、バイク、バス、鉄道技術からさまざまな分野の技術と企業が“中国の未来”を謳っていた。中国独自あるいは日米欧との合弁による展示とそれを見つめる人々の姿には、貧しさや社会としての混乱が感じられたとしても、それ以上に自分たちの未来への期待がそこに溢れかえっているようだった。
その様を見て、ぼくは子供時代であった昭和30年代の日本を思い出した。かつて敗戦国の屈折と空腹感はあっても、未来を予感し“世界に追いつけ追い越せ”と思っていた時代の日本あるいは日本人の姿がそこにダブって見えた。その時代の日本の子供たちは現代の中国の子供たちと同様に国際見本市に行くことを親にせがんだ。そして、現代の中国人の親たちは──きっとかつての日本の親たちがそうであったように──自分自身より子供たちにこそ未来を示そうとしているのではないだろうか。現代の日本の大人たちは、子供たちに未来を見せる努力をしているだろうか。現在を守ることに汲々とするばかりで、次世代のために未来へチャレンジする努力を放棄しているのではないだろうか。
高層ビルが林立し、至るところで新たなビルや公共施設の建設が進む上海の町並みは、かつて手塚治虫の漫画で見た未来都市のようだ。かつて中国を形容する時によく言われた自転車の群れはもう無い。流行のスポットを歩く若者たちのファッションも日本と変わらない。でも、展示会の当社のコマで中国人スタッフ二人の携帯電話が盗まれ、一年間の中国駐在経験を持つわが社スタッフもホテルの朝食中にパソコンなどを入れたカバンを置引きに会ってしまった。それも、今の中国なのである。約40年前の日本人が体験していたことと、日本もまだ持ちえていないような“未来”に向けて驀進するような変化を上海の人々は同時に体験しているのかもしれない。この国の人々が持っている空腹感や少し乱暴に見える振る舞いは、むしろ人や社会としての健康さでもあるのだ。その中にいると、むしろ豊かさの中で精神の成人病症候群に悩み、それゆえの敗北主義に陥っている日本人や日本という国の不甲斐なさを感じるのはぼくだけではないだろう。
変化が急であればこそ、当然のことながら様々な矛盾が存在するだろう。でも、我々が泥棒に会うのも、現代の日本人の感覚からすればギョッとさせられる光景に出会うのも、ついこの前までの日本の姿だった。東京オリンピック前の日本のタクシーは“神風タクシー”と呼ばれてヒンシュクを買うものであったし、その当時に田舎に行けば、道路際で婆ちゃんが尻を出して用を足すのも当たり前の姿だった。
きっと上海でも、車のクラクションは「ドケーッ!お前らドカンカーッ」と権力的な音を発しながら走っていたはずだが、今、そんな車はいない。町でタンを吐く人の姿も目立たない。そんな表現で中国を評して優越感を感じる日本人こそ彼らに追い越されるのではないだろうか。
でも、こんな上海あるいは中国であればこそ、そして我々農業関係者であればこそ、そこに、我々こそが必要とされる場が在ると考えるべきなのである。我々は、その変化を体験してきたからだ。単なる生産技術の移転より、我々の消費体験あるいはそれを保証してきた生産の体験こそが肝心なのである。もう、安い労働力を期待する“開発輸入”の時代から新しい日中の関係が始まろうとしているのだ。農業についても。
今回の短時間の上海旅行で“上海に読者の農産物を販売するアンテナショップを作る”という決心をした。それが“メイド・イン・ジャパンからメイド・バイ・ジャパニーズへ”と読者に呼びかける本誌の責任だと考えるからだ。解決せねばならない課題は少なくないが、それを手始めに、中国の求められる市場に向けて、中国国内だけでなく豪州を含めた各地で日本人農業経営者が第二農場の経営を展開させていく一助としたい。
その様を見て、ぼくは子供時代であった昭和30年代の日本を思い出した。かつて敗戦国の屈折と空腹感はあっても、未来を予感し“世界に追いつけ追い越せ”と思っていた時代の日本あるいは日本人の姿がそこにダブって見えた。その時代の日本の子供たちは現代の中国の子供たちと同様に国際見本市に行くことを親にせがんだ。そして、現代の中国人の親たちは──きっとかつての日本の親たちがそうであったように──自分自身より子供たちにこそ未来を示そうとしているのではないだろうか。現代の日本の大人たちは、子供たちに未来を見せる努力をしているだろうか。現在を守ることに汲々とするばかりで、次世代のために未来へチャレンジする努力を放棄しているのではないだろうか。
高層ビルが林立し、至るところで新たなビルや公共施設の建設が進む上海の町並みは、かつて手塚治虫の漫画で見た未来都市のようだ。かつて中国を形容する時によく言われた自転車の群れはもう無い。流行のスポットを歩く若者たちのファッションも日本と変わらない。でも、展示会の当社のコマで中国人スタッフ二人の携帯電話が盗まれ、一年間の中国駐在経験を持つわが社スタッフもホテルの朝食中にパソコンなどを入れたカバンを置引きに会ってしまった。それも、今の中国なのである。約40年前の日本人が体験していたことと、日本もまだ持ちえていないような“未来”に向けて驀進するような変化を上海の人々は同時に体験しているのかもしれない。この国の人々が持っている空腹感や少し乱暴に見える振る舞いは、むしろ人や社会としての健康さでもあるのだ。その中にいると、むしろ豊かさの中で精神の成人病症候群に悩み、それゆえの敗北主義に陥っている日本人や日本という国の不甲斐なさを感じるのはぼくだけではないだろう。
変化が急であればこそ、当然のことながら様々な矛盾が存在するだろう。でも、我々が泥棒に会うのも、現代の日本人の感覚からすればギョッとさせられる光景に出会うのも、ついこの前までの日本の姿だった。東京オリンピック前の日本のタクシーは“神風タクシー”と呼ばれてヒンシュクを買うものであったし、その当時に田舎に行けば、道路際で婆ちゃんが尻を出して用を足すのも当たり前の姿だった。
きっと上海でも、車のクラクションは「ドケーッ!お前らドカンカーッ」と権力的な音を発しながら走っていたはずだが、今、そんな車はいない。町でタンを吐く人の姿も目立たない。そんな表現で中国を評して優越感を感じる日本人こそ彼らに追い越されるのではないだろうか。
でも、こんな上海あるいは中国であればこそ、そして我々農業関係者であればこそ、そこに、我々こそが必要とされる場が在ると考えるべきなのである。我々は、その変化を体験してきたからだ。単なる生産技術の移転より、我々の消費体験あるいはそれを保証してきた生産の体験こそが肝心なのである。もう、安い労働力を期待する“開発輸入”の時代から新しい日中の関係が始まろうとしているのだ。農業についても。
今回の短時間の上海旅行で“上海に読者の農産物を販売するアンテナショップを作る”という決心をした。それが“メイド・イン・ジャパンからメイド・バイ・ジャパニーズへ”と読者に呼びかける本誌の責任だと考えるからだ。解決せねばならない課題は少なくないが、それを手始めに、中国の求められる市場に向けて、中国国内だけでなく豪州を含めた各地で日本人農業経営者が第二農場の経営を展開させていく一助としたい。
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