編集長コラム | ||
今こそ巣立ちの時がきた | 農業経営者 4月号 | (2004/04/01)
「集落座談会などで行なわれる生産調整に関する説明が、米政策改革大綱の趣旨とはおよそ別物になっている。政策は市町村へ下りてくる中で勝手に変えられている」と。
説明にあたる者がそれを理解していないというより、行政やJAが自分たちに都合のいいように政策を解釈して集落の農民に説明しているというのである。改革大綱がいうところの「担い手」あるいは「認定農業者」という存在も有名無実化され、改革大綱の中身を指摘しつつ反論してみても、集落の論理も使って恫喝を加えられながら、数の論理で押し殺されてしまうという。
そもそも、一定条件を満たした農業経営者が自ら生産調整方針を作成し申請することもできるということ自体が、意図的かどうかは判らないが末端には伝わっていないようだ。
日本農業を滅ぼそうとしているのは、外圧でも消費者の身勝手でもない。それは物貰い根性しかない農民自身であり、その被害者意識と物貰い根性を煽り続けて自らの居場所作りに躍起となってきた亡国の政治家たちと農業関係者なのだ。そんな輩に限って、食糧自給率云々だとか農地の荒廃などというのだから始末が悪い。
地域の米作りへの執着度(経済依存度ではない)やこれまでの地域農政の違いによっても農業経営者が抱える困難さには強弱があるだろう。しかし、そうした問題を指摘する友人たる読者たちにあえて申し上げたい。気持ちは理解できるし、現実は矛盾に満ちている。また、使える制度や補助があるのなら使うのもよかろう。しかし、そんな農業経営者自身の怒りや葛藤の中に、結局は農業政策に依存しようとする弱さは無いだろうか。同じ稲作を主体とする経営者の中には、地域の人々を納得させる言葉と実績を示しつつ問題を解決している人々もいる。地権者農民に対する説得は、農村人としてではなく農業経営者、そして事業者としてはあたりまえの仕事の一部だ。
でも、本誌は何でそんなに米にこだわるのだと言いたい。そもそも誰にでもできる米作りだから生産過剰なのではないのか。読者の中には本誌の勧めで10ha単位の馬鈴薯作りに取り組む経営者集団、あるいは東北から関東、北陸の5人の読者がネットワークを組んで馬鈴薯作りに取り組み、それを通して水田地域での新しい経営の形を作り出している人々もいる。
“巣”に生みつけられた雛鳥は巣立ちをする時まで自分が今いる“巣”の存在を理解しない。彼らは巣の外にある世界や外敵に怯えながら親から与えられる餌を奪い合い、場所取りにうつつを抜かしている。そして、自分を守ってくれた暖かい巣もやがては朽ち果てることも知らない。自らの中にある力を信じて巣立つ勇気を持たぬ雛鳥は、やがてあれほど優しかった親鳥からも打ち捨てられることになるのだ。
今こそ巣立ちの時がきた。
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