編集長コラム | ||
お陰様で創刊100号、そして次へ | 農業経営者 5月号 | (2004/05/01)
ここまで続けてこられたのはひとえに読者およびこの雑誌をご支援いただ皆様、そして広告主のお陰である。ここで改めての御礼を申し上げたい。
しかし、これまで何度も述べてきたが、1960年代末に米の過剰が始まっただけでなく、国民一人当りの消費カロリーが1971年を最高にしてそれ以降は減少しているのだ(国民栄養調査)。欠乏の社会が終わり、過剰の社会が始まっていたのである。農業界の論理の行き詰まりとは、この欠乏の論理を根拠にしていることにあるのだ。
今から35年前、我々はパラダイム(思考の枠組み)を転換する必要があったのだ。しかし、多くの農業にかかわる者たちは安楽椅子に座り飽食を続けながら「欠乏」の時代の論理を超えようとはせず、それにすがって自らの正当性や被害者の論理を主張し続けた。たしかに、それは天動説から地動説へと思考を転換するのと同様に困難なことなのである。なぜなら人は有史以来飢え続けてきた訳であり、かつて国家や人々にとっての最大のテーマは飢餓の克服でありそれへの備えであったのだから。
それに加えて、農業界には相変わらず「市場の論理」あるいは「市場社会」という言葉や現実を忌避する感情がある。ソビエト・ロシアを含む社会主義国家群の崩壊を見れば判る通り、自由な競争と市場機能による需給調整によらぬ経済は破綻するのだ。ソビエト社会とは欠乏を前提とした世界においてのみ通用した幻想なのである。
さらに、その延長線上にある「集落営農」という考え方がいまだに農業関係者の間で幅を利かせている。市場や顧客を意識した明確な経営主体が存在する場合はともかく、ただ内向きの「集落」の共同性に依拠するような「集落営農」も、やがては崩壊していかざるを得ないだろう。それは国家によって生産物が一定額で買い上げられる前提でのみ成立し得たコルホーズの論理と同じだからである。
やっと、まともに産業としての農業や職業としての農業が語られる時代になった。しかも、世界一の消費力を持つ日本の消費社会。成長するアジア。現代の日本ほど農業にチャンスが与えられている時代は無いと言っても言い過ぎではない。ただし、それは生産の視点、供給者の視点からではなく、顧客あるいは市場の要求や必要という視点を持てる者にのみ与えられるチャンスであり未来なのだ。そして、それは農業以外の世界では当たり前のことなのだ。
農業政策の変更で補助金の貰い方を考えるのではなく、そもそもの思考の枠組みを転換させれば当たり前に見えてくる農業経営の今日と未来を考えていこう。
ところで、この雑誌は現在55歳の僕が中心になって作ってきた。読者もその世代が多い。読者の多くも農業界の中で農業改革に向けて取り組み、パラダイムの転換を主張してきた人々だと思う。しかし、時代は変わった。過剰の社会、ボーダレスの世界の中で必要とされる次の知恵と倫理、それを可能にするより高いビジネスセンスが求められる時代なのである。
本誌では、次号の101号目を期に見識を持ったより若い世代のスタッフが中心になって作る雑誌にしていきたいと思う。ご期待ください。
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