農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ | ||
第44回 危機を救ってくれたのは家族とお客様だけだった | 農業経営者 2月号 | (2008/02/01)
経営破綻を乗り越えて
今から20年前の1988年、鈴木博之(57歳)は破産に陥る危機を経験している。76年に鈴木が中心となって組織した農業機械の共同利用と作業請負を目的とする任意団体「大山北部地区農作業互助会」が行き詰まった結果である。組織の機械導入のために、鈴木家の資産が担保になっていたのだ。その清算のための借金返済は、今も続いている。
任意団体の破綻に先立つ84年、鈴木は2農作業互助会を設立していた。鈴木博之・せつ子夫妻、そして川越尚治・志保子夫妻と二夫婦四人の法人である。現在は約13haでのコメ生産と販売、約30haの収穫調整を中心とした作業請負を行なっている。さらに07年12月には、2600万円を投資し、LGCソフトを原料米とする加工場と店舗を兼ねた団子屋を開店した。その加工場の責任者として、もう一夫婦を加えた三夫婦六人の経営に発展させようとしている。
任意団体の経営破綻。競売、裁判、和解勧告、そして経営再建への道のり。冷え切った村内での人間関係。その中で深まっていく家族の絆や、顧客や異業種の人々の支援……。
村社会、農協との軋轢の中での経営危機は、地域や親族を含む人間関係に悩むことでもあった。だが、そんな困難を経験すればこそ、鈴木は農民から本物の事業経営者に成長できたのだともいえる。
農協を訴える
農業高校を卒業して数年、鈴木は運送会社に勤めていた。しかし会社勤めを始めた父に代わり、23歳で農業を始めることになった。34年前のことだ。当時は3haの水田があれば、十分な収入になった。母と二人での稲作であり、田植えや収穫に人手を頼めば、持ち出しも大きくなっていった。若い鈴木はより発展的な農業をしたいと考えた。
機械化が飛躍的に進む時代だった。鈴木も機械化による省力を進めるとともに、作業請負の新事業に取り組みたいと考えた。
農協の勧めもあって、鈴木が農業機械の共同利用と作業請負を目的とする組織を作ったのは、76年のことだ。五戸の農家との共同事業だった。作業を受託する推進(営業)活動は、農協が担当することになっていた。コメの出荷も当然のことように農協だけだった。
しかし、やはり農協の勧めで組織された二つの受託集団との競合で、鈴木らの組織は経営が行き詰まることになる。鈴木ら以外の組織に仕事が流れ、鈴木の組織には仕事が回ってこないのだ。
「恨み言のように聞こえるかもしれないけど、ほかのグループの方が有力者との人脈が深く、農協の後押しが強かったのかもしれないですね。でも、今になって考えてみれば、他人に営業を任せて自分は仕事が来るのを待っているなんて、経営じゃないですよね」と鈴木は笑う。
売上が上がらない、人件費がかさむ、採算が取れない、返済ができない……。追加の融資、そしてその返済も滞り、借金はどんどん膨らんでいった。参加していたほかの農家は、農業をやめるといって組織を離れていった。残ったのは、鈴木と川越の二家族だけになった。
農協は組織の清算を要求し、担保設定されていた鈴木の家屋などを競売にかけると言ってきた。鈴木の親族や近隣の人々を含めて、落札予定者まで裏で話がついていた。その話を聞いて、鈴木は人生観が変わってしまうほどのショックを受けた。首をくくる者がいれば、その縄をなう人間もいるのが世の中なのだと、つくづく思い知らされた。
寝ても覚めても考えることは借金のことばかり。鈴木は当時を振りながら、今、困難の中にいる農業経営者に向けて伝えたいと言う。
「行き詰まった農家は、きっと農協の生命共済のことが頭にあると思う。自分もそうでした。農協とのかかわりが深ければ、5000〜6000万円くらいは共済がかかっているはず。自分もそれを考えながら、高速道路のガードレールに飛び込む夢を見ました。でも、その人なりの解決策は必ずあるんです。死を選ぶなんて、絶対すべきではありません。すべてが後ろ向きにしか物を考えられない時に、情緒的に振舞うことほどの不幸はありませんから。だから第一に、一人で悩まず、まず妻に、そして家族に現状を包み隠さず話すことが大事だと思います」
(以下つづく)
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