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農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

過疎の中山間地に経営の可能性を見つける  | 農業経営者 5月号 | (2008/05/01)

【高木正美(岐阜県大垣市)】
経営者ルポ 役場勤めという安定職を捨ててまで過疎が進む中山間地での農業に可能性を見出し、家業である水田経営を継いだ元税務課職員。獣害の多発地で15haの水田作業をほぼ一人でこなし、大幅なコストダウンを実践する効率的な経営手法は山仕事で学んだ無駄のない作業習慣から生まれた。地域の担い手として活躍するそんな彼が稲作と林業を通して見つめる地域の未来とは——。

農業経営での成功を信じ役場勤めから転身



高木正美が町役場を辞める時、心に決めたことがある。

「農業で町長より高い車に乗ってやる」である。そして今、高木はトヨタのセルシオに乗っている。本当はベンツにしたかったが、「それはまずい」と父に止められたからだ。

体育教師を目指していたが、それが果たせずに勤めた町役場だった。しかし、その職場が高木を農業へと導いた。町役場では税務課員として働いた。申告指導のために農家を訪ねると、農家は決まって「農業では食ってはいけない」と話した。また、誰もが農業や林業、そして地域の衰退のボヤキを語っていた。

そうした話を聞くうちに、ほとんどの農家が経営の収支など考えていないことを知る。そもそも農業という自らの「事業」を成り立たせようという意識がないのである。

雪で東海道新幹線のダイヤを狂わせる関ヶ原の山中。だが、名古屋市内へ行くにも車で1時間という高木の集落は、トヨタをはじめ兼業先に恵まれている。米価下落でますます収支が合わなくなっていくのに、農家は赤字を出しながら暢気な田舎暮らしを楽しんでいる。

高木は知った。農業が儲からないというが、本当はそれ以前の問題があるのだということを。父親の春雄(74歳)は、農業と山仕事で自分を大学まで出してくれた。そんな父とほかの農家とでは働き方が違い、経営を成り立たせるための努力も違っていた。農家の数が減ることを、農業界や村人たちは農業の衰退と語るが、それをチャンスだと考えた。(以下つづく)
※記事全文は農業経営者05月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(98) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

梁山泊の生命線を握る男。  | 農業経営者 4月号 | (2008/04/01)

【(有)ユニオンファーム 総合企画室取締役室長 農学博士 杜建明(茨城県小美玉市)】
経営者ルポ 「アイアグリ」は、茨城県を拠点とする農業資材の販売会社だ。2000年、玉造和男社長の肝煎りによって、研究農場「ユニオンファーム」が設立される。取締役室長として抜擢されたのが、アイアグリの主任研究員として働いていた杜建明だった。和男が力強い牽引力を見せる太陽だとするなら、建明はそれを陰から支える月だった。国籍は違えど、農業に対する2人のベクトルは、くしくも一致していた。そこに誕生したスペシャリスト集団は、まさに「梁山泊」と呼ぶにふさわしい。

冬の昼下がりである。外の気温は、およそ5度といったところだろうか。つい1週間ほど前にも、関東圏は大寒波に見舞われたばかりだ。しかしハウスの中は、まるで春だった。黄色い小さな花弁をつけた茎を指先で折ると、彼は筆者を見上げた。

「今が旬の野菜なので、とても美味しいですよ。ちょっとかじってみてください。大丈夫ですよ、有機栽培ですから。このまま食べられます」

手渡された緑色の茎を、ひと口かじってみた。とたん、奥歯に自然の甘さがじわりと広がる。 サカタのタネが、わずか数年前に開発した「紅菜苔」という野菜なんだという。そのため、あまり市場には出回っていないそうだ。事実、食料品をよく購入する筆者でさえも、その名を耳にするのは初めてだった。(以下つづく)
※記事全文は農業経営者04月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(14) | トラックバック(0)
農業経営者取材 | 新・農業経営者ルポ

第45回草取りは、上手くなっては駄目なんだ  | 農業経営者 3月号 | (2008/03/01)

【高松 求(茨城県牛久市)】
経営者ルポ 1930年、茨城県生まれ。1947年、茨城県牛久市の高松家への婿入りをきっかけに、本格的に農業を始める。以後、茨城県を代表する農業経営者として多くの人々に影響を与えた。98年には、「『土の力』を引き出す米づくり、『豚の心』を読んだ飼養技術、『地域の教育』を重視した近隣の子供たちへの竹林の開放などユニークな活動を展開」などを理由に、山崎記念農業賞を受賞。引退した現在も、若い経営者たちや業界人、研究者にヒントを与えリードする指導者になっている。

農業の革新者



かつて、生産者という存在に過ぎなかった日本の農家世帯主の行動は、「経営者」と呼ぶに値せず「単なる業主」であると言われてきた(農業経済学者・東畑精一)。

ところで、食糧管理法は今から13年前の1995年まで存在した。戦時立法(1942年)である食管法は、高度経済成長の時代が過ぎ豊かな市場社会化が実現するだけでなく、コメの供給過剰が常態化した後も廃止されることはなかった。それは農業関係者の利権を維持するためであり、政治の手段だったからだ。農家が農業の「経営主体」になり得なかったのは農業政策の結果なのである。食管法が農家をマーケットから「隔離」し、顧客に出会うことを禁じてきたのである。

それに加えて様々な農家保護政策が彼らから自ら事業者としての自意識を育てるチャンスを奪った。また、多くの農民は、「経営者としての誇り」を自ら問うより、「被害者としての農民」という立場を声高に叫ぶ農業界のイデオロギーに安住する事大主義の中にいた。そして、本誌はそんな農家の存在を「自ら借金させられる農水省の作男」と揶揄してきた。

しかし、そんな時代の中でも顧客やマーケットを自覚す経営者たちは育っていた。そればかりでなく「土に戻し続ける」という農家としてのあるべき姿を追求する中で、「人と土」とのかかわりを「事業者と顧客」、「経営者と社会」に模して語れる農業経営者もいた。イノベーション(革新)をテーマにした今月号の特集に合わせて、すでに現役を引退されているが、筆者に本誌の創刊を動機付けた高松求(77歳)のことを紹介したい。高松の農業経営者としての人生こそ、農業の革新者そのものであると思うからだ。(以下つづく)
※記事全文は農業経営者03月号で
Posted by 編集部 | 12:30 | この記事のURL | コメント(1) | トラックバック(0)